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http://ebooks.adelaide.edu.au/f/fitzgerald/f_scott/gatsby/chapter1.html
僕の家族は中西部の町において、三世代にわたって裕福な家族として知られていた。キャラウェイ一族とは名士であって、元はといえばバックルー公爵家の血を汲んでいるということだが、僕の実感としては、キャラウェイ家のはじまりは51年前に誰かの代わりに市民戦争に参加するためにこの地に放り込まれ、現在僕の父が継いでいる鉄器の仕事を始めた祖父の兄弟だと思う。この偉大なる大叔父を直接見たことはないが、父の職場にぶら下がっている若干ハードボイルドすぎる肖像画を見る限り、僕に面差しの似た人であったようだ。僕は父に25年遅れてニュー・ヘブンの大学を1915年に卒業し、第一次世界大戦でドイツに駐屯したためにもう少しばかり遅れた。僕は完璧にこの反撃戦を楽しんでいたから、帰ってきてからもそわそわと落ち着かなかった。温暖な世界の真ん中とは違って、中西部は今ではぎざぎざの宇宙のはしっこみたいに見えたーだから、僕は東部に行って証券取引を学ぶことに決めた。僕の周りはみんな株をやっていたから、もう一人くらいやるやつが増えたってどうってことないだろうと思ったのだ。この件については伯父も伯母もみんながまるでわが子の入る学校を選ぶみたいにあれこれと口を挟んできたが、最後には諦観の境地に至ったのか、理解に苦しみながらも賛成した。僕は父からの援助を1年間だけは受けられることとなり、さまざまな障害を経て、22年の春から、一時的にー僕としては永遠にー東部にやって来た。
さしあたって部屋を探さなければならなかった。幸いにも暖かい季節だったし、広々とした緑の大地と慣れ親しんだ木々の町を出て来たばかりだったので、同じ職場の若い男から職場に近い家を二人で借りようと持ちかけられた時には二つ返事で飛びついた。彼は月80ドルのダンボール製みたいなぺらぺらのあばら家を見つけてきたが、最後の最後でワシントンへの転勤が決まり、僕は一人で田舎に取り残された。僕は少なくとも2,3日の間は犬を飼い(逃げた)、そのほかに古いダッジを所有し、フィンランド人の女中を雇った。その女中は僕のベッドを整え、朝食を作り、電気ストーブごしにフィンランドの叡智を彼女自身に向けて言い聞かせていた。
そんな僕の孤立した日々は案外にすぐに終わった。僕よりも後に近所に引っ越して来た男が、僕を呼び止めたのだ。
「ウェスト・エッグ・ビレッジへの道順をご存知ですか?」彼は力なく尋ねた。
僕は彼に道を教えた。そして歩くに従って、僕はもう孤独ではなくなっていった。僕はガイドであり、近道を知るものであり、一番最初の開拓者だった。彼は何気なく僕に「近所」という未開の地をもたらしたのだ。
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http://ebooks.adelaide.edu.au/f/fitzgerald/f_scott/gatsby/
http://ebooks.adelaide.edu.au/f/fitzgerald/f_scott/gatsby/chapter1.html
F.スコット・フィッツジェラルド著
偉大なるギャツビー
第一章
僕がまだ傷つきやすい若者だったころ、父は僕にひとつの助言を与えた。それ以来、その助言が僕の頭から離れたことはない。
「もし誰かのことを気に食わないと思ったら」父は言った。「ただ思い出すことだ。世の中はお前ほど恵まれた人たちばかりではない。」
それ以上何を言われたわけではない。でも、僕は父とは普段から黙っていても通じるものがあったので、その時も僕は彼から言葉以上のものを理解した。結果として、僕は批判的な意見をまったく口に出さなくなったし、普通は興味を引くようなものごとにもあまり関心を持たなくなった。そして、つまらない話を長々とする類の人々に好かれるようになった。病的な精神というものは、普通の人の中にも芽生え、その瞬間にそこらじゅうを嗅ぎ回り、ぴったりとくっついてしまう。僕は大学生のときに狡猾なやつだと不当に責めたてられたせいでそうなった。なんでそんなことになったかというと、僕がよく知りもしないような荒っぽい連中の秘めたる苦悩をどういうわけか知っていたからだ。ほとんどの彼らに関する数々の秘密は別に知りたいと思ったこともなかった―彼らの個人的な秘密がちょっとでも幕間から顔を出しそうになると、僕は確実にその予感をキャッチして空寝したり何かに夢中になっているふりをしたり、好ましいとはいえない行為でお茶を濁したりしていたーつまり、少なくとも、秘密が明らかになるという時は、いつもあからさまに耳をふさいでいた。永遠の希望とは、決断の先延ばしに過ぎない。たまに僕は何かを失いつつあるような心もとない気持ちになる。僕が父に習って反芻してきたことを忘れてしまうことを恐れる。紳士的な表現が過ぎるにせよ、父があのときほんとうに僕に伝えたかった助言はこうだ。
「僕たちの持つ基本的な品性というものは、生まれた瞬間に不公平に振り分けられているのだ。」
そして、このようにして矜持ともなった僕の忍耐力は、ある日限界を迎えた。行いというものは、もしかしたらハードロックや、沼地のぬかるみを礎としているのかもしれないが、ある一定のポイントに至って、僕はそれが何に起因しているのかを考えるのをやめた。昨年の春、東部から戻ってきたとき、僕は世界に一定の法則があって、道徳が永遠に損なわれないことを願っていたような気がする。もう二度と人間の本性を見せ付けられるようないかれた騒ぎはごめんだった。この本の題名にも冠されているギャツビーという人物だけは別としてーギャツビー、僕の生来蓄積された「軽蔑」という概念の化身。もしも、人間性というものが身振り手振りがうまいぐあいに連続した状態のことを指すとするなら、彼にはどこか華麗な部分があった。明るい人生に向けて磨き抜かれた繊細さがあった。それはあたかも彼自身が1万マイル先の地震にも反応する複雑な機械であるかのようだった。その感応性はいわゆる「芸術家気質」とか言われて有難がられるような脆弱な感受性とはまったく違っていた。ーそれは「希望の着地点をあつらえる」という神からの贈り物とも言うべきものだった。空想的な用意周到さとも言える。そんな能力をもった人間に出会ったことはそれまでなかったし、おそらく二度と出会うこともない。二度とだ。ー最終的に、ギャツビーは何も間違っていなかった。ギャツビーは食い散らかされ、僕が持っていた人間の敗北というものの悲しみや短い隆盛への興味を一時的にであったとしても閉ざしたギャツビーの夢とうつつの間に漂っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー訳外
最後のほうぜんぜんちゃんと考えてないのでまたかきなおすとおもう
というか正直に言うと最後の一文がまったく理解できていない。
なんかこう、人間の栄枯盛衰というのをいい気味だなと思っていた主人公でさえもギャツビーに関しては例外だけど、でもギャツビーもろくなめに合わなくてカワイソだったんだよねー
って感じなんじゃないかなーとは思うんだけど、ぜんぜんちゃんと日本語にできないので
全部読み終わったら一周して戻ってこようと思う。最後までお話がわかったら理解できるようになるかも。
九日間の正月休みが終わってしまうけどいきなり明日からフルスロットルで動かないといけなーい
アウトですこんにちはー
正月前に済ませておけないことってあるのよねー
正月実家に四日いて、二日前から自分の家に帰って来てたんだけど
猫がヒザの上から下りなくて大変重い。
もらって来たときは本当にちっちゃかったのに今では5キロ
ひざの上にいても俺も動くし構うからぜんぜん落ち着けないのに
どうしてひざに乗りたがるんだろうな。
「華麗なるギャツビー」を見た。
村上春樹の小説に毎回出てくるんで(毎回じゃないのかもしれないけど毎回のような気がする、少なくとも羊までは)
どういう内容なのか見たかったため。
1920年代という感じ。これは原作を読んでからの方がいろいろと感じられてよかったんじゃないかと思う。
それにしても、村上春樹の小説のおかげで作者のフィッツジェラルドさんのイメージが俺の中で
「エンパイア・ステートビルの上から傘をさして額縁を持って飛び降りて自殺した人」になっている。
※これは本当はデレク・ハートフィールド(しかも架空の人物)さんのことです。錯誤のままにこう覚えちゃったのですね
ウーム、20世紀を代表する名作の作者だというのに。
映画でぜんぜん英語が聞き取れなかったので、ちょっと英語の勉強もかねて
原作を翻訳してみるのもいいかもしれないなーと思った。
しかしこの話が多少なりともスコット・フィッツジェラルドさんの実体験に基づいたものだとしたら、
確かに多少なりとも絶望してエンパイアー・ステートビルの上から傘を指して飛んでしまっても仕方がない。
太宰治的な人生に対する絶望感を感じる。なんとなく太宰治の親友だかなんだかの友達に
女房を寝取られたけど立場上責めることもできなくって自殺しちゃう小説家の小説を思い出した。
なんだっけあれ?人間失格か?
サテ、この2012年製作のグレート・ギャツビー、最初はニックの役がベン・アフレックのイメージだったらしい。
で、ベン・アフレックは仕事がかぶったのでパスして、俺の最近大注目のスーパーかっちょいいイケメンの
ブラッドレイ・クーパーとかが候補になったけど最終的にトビー・マグワイアに。
見てる途中、もしこのキャスティングがベン・アフレックだったら・・・とか
ブラッドレイ・クーパーだったらとか思いながら見ていた。
1920年代の雰囲気というか、においが強く出たんだろうなというのが
ベン・アフレックだったんじゃないかなーと思う。ただし、二度と見たくなくなりそう。匂いがきつすぎるというか、
お茶が飲みたいのにウイスキーしか飲み物がない感じ。
ブラッドレイ・クーパーだと、たぶんサワヤカーに終わってしまったのでは。一番無難な感じ。
トビー・マグワイアのとっつぁんぼうやな感じ、変にピュアな印象が
その純粋さゆえにギャツビーの真の友達になりえたんですよ的なオプションになっててすごくよかったと思う。
しかし、ディカプリオは本当にいい男だなあ。近年、若干サイコ入った人の話しか出てない感じがするけど。
ちなみにギャツビーも凡人には及ばない才覚があるのを除けば、かなり危ないサイコ野郎だ。
ブラッドレイ・クーパー関連でもういっちょ見た。というか、見出すまでブラッドレイ・クーパーだと気がつかなかったのだけど、
「世界にひとつのプレイブック」。
ジェニファー・ローレンスが見たくて借りたらジェニファー・ローレンスとブラッドレイ・クーパーだったよ!っていう。
これはブラッドレイ・クーパーがサイコ野郎の話。というか、登場人物全員が発狂している。
精神科にかかってない人でも病的な程度におかしいんだから大丈夫だね!っていう感じ
ぜんぜん大丈夫じゃないが。
好きな二人が出てるから楽しめたけど、唯一非常に気になったのが
プレイブックがぜんぜん出てこないこと。出て来てた?タイトルにまでなっているのに見つけられなかった。
オープニングのキャストロールのところがノートに落書き風だったような気はする。でも違うよね。
そういえば、開けましておめでとうございました。
「アウトさん><謝恩会実行委員なんですけど、どーやったら事務の人来てくれるんですかー><」
うーん、このキャンパスの事務部で一番エライ人あてに歴代の子たちは招待状出してたかなあ~
「そうすると>< 事務の人みんな来てくれるんですかー」
事務部代表の呼ばれた人しか基本行かないねー
「(´・ω・`)」
(´・ω・`)俺もいってみたーい
アウトですこんばんはー
昨日おとといが例年の友人一同との一泊つき飲んだくれ忘年会。男女10名だがいつものメンツすぎて。
温泉がすごいヨカッタ。死ぬほど飲んだので今日は代休で休みました。ワーイワーイ
年末に休めるのは俺の部署くらいだよねーって思う。
楽しかったなあ。今年も終わりですね。
謝恩会の子達がウロウロするようになったので、ああ、この子たちも卒業してしまうノカ・・。という思い。
おっきくなったね。もう高校生じゃないね。4年前は高校生だったのにね。
おじさんがおいめいを見るような気持ちになる。毎年繰り返すのだからあまり感情移入しないようにしなければな。
でもなついてくれるとどうしても、寂しくなるね。
「ハングオーバー 最後の反省会」を見た。三作目なのでこれで最後だろう。タイトルも最後って言ってるし。
2よりは面白かった。1~3のキャストがまったく変わらないのがすばらしい。
相変わらずトラブルメーカーのキモ男は一つ一つの動作・しゃべりが
微妙に神経を逆撫でして素晴らしい。この脚本家、演出家はどういう「ほんのちょっとした違和感」が
「キモい」という生理的嫌悪感を生み出すのか熟知しているなと感心する。スゴイ。
相変わらずブラッドレイ・クーパー(フィル役)は素晴らしくかっこいいし、聖人だ。
フィルという人物は、「スーパーマンや映画の主人公じゃないけど現実にいるレベルの最大限心も見た目もカッコイい人」
という限界ライン上にびったり留まる。むろん、基本は普通の人なので、
間違ったり早合点したりちょっとカッコ悪かったりする。でも日常で出会ったら鼻血が出るレベルの心の広さを見せる。
この微妙な加減がまたうまくできてるなあと思って関心した。
ダグの存在感のなさもよい。ステュの本当によくいる「普通のちょっと変なひと」の感じもよい。
そういうキャラクターのさじ加減に感動していた。あまりストーリーがなかったというのもある。
面白さで行けば1が抜群だけど、3まで全部見るとなんだか懐かしさや親しみを覚えるのがよかった。
「サイレントヒル リベレイション」を見た。
これは、久々にホラーを見たのもあってか「怖い」と思った。
俺がホラーを見て「怖い」と思うのは非常にマレなので、怖かったんだと思う。
主人公の女の子がすごいカワイイ。「サイレントヒル」でカーチャンががんばって助けた子が成長した姿。
サイレントヒルを見てからずいぶん経っているので細かいことは忘れたけど
結構大丈夫だった。でもまったく見たことがなくてリベレイションを見るとまったくわけわかんないと思うので
おすすめしない。サイレントヒルから見てね!
なんで怖いと思ったのかというと、「読めなさ」だと思う。
サイレントヒルのときも俺は結構「コレ怖いなあ」と思っていて、
それは基本的な「意味不明さ」「予測不能さ」があったから。
たぶん、俺原作のゲームプレイしたとしてもぜんぜん進めないんじゃないかなと思う。
でも、そういう意味で久々に怖い思いをしたのでこれはアタリ。
チョット計画していることがあって
そのためにアレコレ買い物しないといけない上に割りとお金がかかるので
かなり節約生活している。今日は500gで250円のサケのアラ汁
でもオイシイ 体あったまるー
アウトですこんばんはー
そして自分の漬けた梅酒で晩酌という・・・
平和だな。
サテ、「アイアンマン3」を見る
ペッパーと結婚してラブラブしている
アレ?2でそこまで行ったっけ・・・と思っていたら
なんかソウとかキャプテンアメリカとかと一緒に戦った
アベンジャーズの中でいろいろとあったらしい。今度アベンジャーズを見てみないことには
アイアンマン3についてはなんともいえないって感じ。
今週はノンビリした。
先週は実家とこっちを行ったりきたりでぜんぜんノンビリできなかったので
久々ってかんじ。
来週は休日出勤確定なので、のんびりできない。
月末に出張なのだけど、猫をどうしようか考えている。
27日に代休を取って猫を預けて29日に猫を引き取って30日に実家に戻るか。
死にそう。